ある、場所。
最近、ふと思った事。
そういえば、日本にはないな、こういう場所が、ということ。
わたしはNYにいたときに、よく行っていた場所がある。
それの一番はグランドセントラルという駅で、
よく写真でもみる観光名所でもあり、中心の駅でもある。
だけど、なぜだかそこに、わたしはよく行っていって、ただぼーっといた。
かならず、appleがあるほうの階段を上がって、縁に手をかけて、ただそこを眺めていた。
ひとりになりたいとき、考え事をしているとき、かなしいとき、何も考えたくないとき。
仕事前によったり、通りかかりにしばらくいたり、わざわざ向かってそこへ行ったり、
なぜか、ずっと、ひとが行き交うあの場所を眺めていた。
そして、天井の星座を。色を。電光掲示板を。時計を。観光客を。trackの入り口を。
そんなふうにずっといると、よく写真を撮ってくれ、と頼まれて、こころよく彼らの思い出をおさめる。
なにをするわけでもなく、ただそこにいた。
いろいろあったのだ、きっといろいろありすぎたのだ。
そのうえ、きっとやわだったのだ、やわ。
パンクしたら、そこで空気をいれてもらうような、
なにか渦巻く闇を吸い取って調和してもらえるような、そんな気もした。
たくさんの人がいるなか、すごく“ひとり”をかんじるときもあった。
また、みんなで一緒に生きている、と勝手に心強くなるときもあった。
あの場所の匂いを、空気を、いまもわたしはここで思い出せるような気がする。
そうしていると、なにかが、すん、と落ち着いておさまり、ままいいのかもしれない、と思った。
そういえば、いま、そんな場所がない。
日本に戻ってから、NYにいったとき、やはりひとりで使命感的に向かった場所はグラセンだった。
そして、あ、帰って来た、と強く感じ、同時にそのときに感じたのは、
昔一人できていた、感傷的な気分ではなく、興奮や喜びに近いもののほうが多く占めていた。
大きな声で叫びたいほどで、
おそらくわたしはかなり大きめな声で、
うおーかえってきたーわたしーここにいるーいきてるー
とかなんとかしばらくだいぶおおきな独り言をいっていた。
わたしここにいたわ、わたしここでちゃんと生きていたわ。
あのころの自分が愛おしくなるように。
強くなった。そして、いまも日々わたしは強くなっている。
そして、いま、本能的にグラセンにいきたい、と思っている夜である。
今行ったら、わたしはなにを感じ、なにを思い考えるのだろう。
この写真は、NYに舞台の公演で戻ったとき。
2015年11月のグラセンに降り立ったわたし。
そんなことを胸に秘めて。
日々前進していく。
確実に、一歩ずつ。
ちゃんと、自分の足で立つ。
生きているよ、わたし。
いまちゃんと生きてるから大丈夫だよ。
you are shining
no matter how you are
you never lose your charm
I am always on your side
to all my love
xoxo
risako